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​赦しの実践とサポート

​心のための学びとは ​~独習過程であることの意味~

ACIMは、心のための学習コースです。

それは、

心を真理へと導くための教えであり、

「奇跡」とは何かを教えるための 救済のカリキュラムです。

「奇跡」とは何かを学びながら、「赦し」を通して 心の「平安」を体験することで、

本来の幸せへと導く 徨う心のための 救済のプログラムです。

ACIMは、

迷える心が 心の幸せを受け入れる方法として「赦し」を用い、

それを正しく行えるよう、一貫して「赦し」を学ぶカリキュラムになっています。

 

 

「赦し」は、心においてのみ有効に働き、

「奇跡」は、一なる心によってのみもたらされていきます。

「迷える心」が救われるためには、

心に幸せを受け入れるための方法である「赦し」が 正しく行われるように、

「心」に関する正しい理解が 何よりも必要です。

​♡

ACIMが示すカリキュラムは、

「心」のための教えであり、「心」のための独習過程です。

「心」とは何かを認識していない「迷える心」は、自分が何者かについても 誤解しています。

「迷える心」は、

何が本当の救済なのかもわからずに、間違った救済の方法を選んでは、

永遠に 迷える心のまま 迷い続けています。

そして、

時に 藁をも掴む想いで 宗教にのめり込んだり、

​幾人もの優れた教師のもとで あらゆることを学んでは、迷いを脱した気分になったりしながら

迷いから脱することなく彷徨っています。

だけど、

「迷える心」が必要としているのは、

祀り上げられた何かや誰かにあやかることでなければ、それらを崇拝することではありません。

幾人もの優れた教師の教えでなければ、

心の「平安」を獲得するための あらゆる学びでもありません。

「迷える心」に本当に必要なのは、

一貫して、たった"ひとつ"のことを教える たった"ひとり"の「内なる教師」です。

ACIMは、ただ「奇跡」だけを教えています。

「奇跡」をもたらす「赦し」は、"ひとり"の「内なる教師」によって教えられ、

「赦し」によってもたらされる「奇跡」は、"ひとつ"の「一なる心」によって行われていきます。

ACIMが独習過程であることの意味は、

これまで、永遠に犯し続けてきた私たちの間違いを 二度と繰り返さないように、

ACIMの名のもとに ACIMを教える誰かを祀り上げることや、ACIMを崇拝することを避けるためのものです。

そして同時に、

私たちが、たった"ひとり"の「内なる教師」から学ぶことだけを

受け入れていくよう促すためのものです。

私たちは、「一なる心」から分離し、

分裂したひとつとして、この世界に過ごしています。

私たちが送る日常で起こるものごとには、それが人であれ 物であれ、常に相手があり、

自分とは分離したひとつの存在との間で、常に 何かが繰り広げられているように感じています。

実際は、

それが「ひとつの心」によってなされ、

「ひとつの心」によって行われているのだということを 真に理解しているのなら、

私たちが、この世界に存在する必要はありません。

​そうしたことを理解できない私たちは、

分裂したひとつ、つまり 肉体を持った個別の存在として「心」を学んでいきます。

そのため、その「心」とは、

初めのうちは ACIMが教える「一なる心」を捉えられずに、

自分が捉えている「分裂した肉体の心」に解釈し直して理解しようと試みた「ひとつの心」です。

それが、「赦し」を実践していくと、

肉体の中の「分裂したひとつの心」と「一なる心」の違いが少しずつわかるようになり、

次第に、自らが「心」であることを理解しながら学ぶようになります。

さらに学びを深めていくと、

肉体を持った個別の存在として学んでいた感覚は薄れていき、

「心」である自分を認識しながら、「一なる心」について理解していくような感覚が強くなっていきます。

そのプロセスは、

肉体の中の「分裂したひとつの心」が、分裂していない「ひとつの心」を理解していきながら、

本来の姿である「心」として「ひとつ」であったことを 思い出していくような感じです。

「心」を学ぶプロセスは、

"ひとり"の「内なる教師」によって行われていきます。

"ひとり"の「内なる教師」とは、

「分離したひとつの心」の中にある部分ではなく、

「分離したひとつの心」と「一なる心」とを知る、分離していない「ひとつの心」そのものです。

それが、

「迷える心」を救う たった"ひとり"の唯一の教師です。

「心」を正しく理解しているのは、分裂した心の部分のどの部分でもあり得ず、

「分離していない心」のすべてでしかあり得ません。

「迷える心」を救えるのは、迷っている心のどんな部分でもあり得ず、

「迷っていない心」そのものにしか導くことはできません。

それゆえに ACIMの教えは、

心とは何かを知っている「分離していない心」、それを正しく理解している「迷っていない心」、

つまり、「一なる心」が導いていくのです。

ACIMの教えのすべては、

「ひとつの心」に向けた、「ひとつの心」に対する教えです。

「一なる心」について教えるカリキュラムが、

「分裂した(と思っている)ひとつの心」が理解できるような言葉で記され、

「分離していない(ことを認識している)ひとつの心」によって理解されるようにと意図されています。​

言い換えれば、それは「ひとつの心」だけが理解できるもののため、

誰かが赦しを行えば、ほかの誰かも赦されていきます。

そして、 誰かを赦せば赦すほど、自分が赦されていきます。

それこそが「奇跡」です。

ACIMは、"ひとり"の「内なる教師」によって、

"ひとつ"の「心」に学ばれるべきカリキュラムとしての 独習過程です。

「心」を救済するには、"ひとつ"の「心」と"ひとり"の「内なる教師」だけが必要です。

そこに、「ひとつの心」だけしか存在していないからです。

ACIMは、心のための独習用カリキュラムです。

それは、心を真理へと導くための教えであり、

「奇跡」とは何かを教えるための 救済のカリキュラムです。

分裂することを選び続けながら彷徨っている、

「迷える心」に対して差し述べられている 救いのプログラムです。

そして「赦し」は、

「分裂した心」を救済するための方法です。

「分離していないひとつの心」であることを思い出すために、

「赦し」を通して「赦し」を学び、

「一なる心」そのものに導いてもらうことを受け入れることで、

「分離していないひとつの心」として、本来の幸せである「心の平安」を思い出していきます。

ACIMの教えは、

それを可能とする「心」のための学習のコースであり、

「ひとつの心」によって「一なる心」を思い出すことを教える 独習用のカリキュラムなのです。

 当サイトでは、

 ACIMの教えを学んでみたいあなたのために、

​ 最初の一歩の学びをサポートする いくつかの方法を提供しています。

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