私とは 一体何者なんだろう
- CHIEKO
- 2020年7月31日
- 読了時間: 2分
更新日:2021年6月2日
もやもやしたものを 感じては
ひとつ 受け容れて
そわそわしたものを 感じては
またひとつ 受け容れる
そうして
ひとつ 受け容れるごとに
新しい感覚が 訪れて
新しい何かを 受け容れるたびに
それを 受け容れるようにと
促されて いるようだ
もやもや や そわそわ は
新しい何かを 受け容れることに 抵抗する
自我の 働きだ
それを 導く導き手は
ただ じっと
時を 待つように
自我をそっと 見守っている
私は
自我と 導き手との間で
ただ それを見て
時に 自我を選択し
時に 導き手を選択しては
いずれ 受け容れることになるそれを
真に受け容れる 準備をしていく
そうしながら
自我か 導き手かのどちらかを
短い時の 間で
選択している 私を感じた
その私とは
一体 何者なのだろう・・・
ふと そんなことを思う
これが 神の子なのだろうかと・・・
今までも 瞬間瞬間で
自我か 導き手かの間で
そのいずれかを 選択し続けてはきたけれど
自我に同一化した状態が 当たり前で
たとえ 導き手を選択できても
気がつくと 自我に戻っていた
霊的結婚をした後の 今のそれは
そんな 瞬間的な選択の話ではなく
これから先も ずっと の
永久的なもののように 感じる
神の子は
自我を選択すれば 自我そのものとなり
導き手を選択すれば 導き手そのものとなる
そして 言葉を変えるなら
神の子は
導き手との 完全なる同一化
つまり 一体化することによって
自我を去り 真我となる
と いうことなのだろう
神の子は
神の子 そのものであるはずなのに
自我と 同一化したために
神の子であることを 忘れてしまった
そして 導き手は
そんな 神の子に
神の子であることを 思い出させるために
一旦 導き手と同一化させることで
柔和に そしてごく自然に
神の子であることを 思い出させているのだろう
導き手の 役割が終わる時
導き手も 消え去るという
その時
導き手と一体化した(真我となった) 神の子は
今度は
神と同一化し 一体化することによって
ただ ある
だけと なるのだろう
そして
それが 無我の状態
と いうことなのだろう
今 このときに
私は 神の子であることが
見えた
そして
自我を導く導き手と 同一化し始めた
今 私は
自我から 真我として
意識が 変わってきている
もはや
もやもやや そわそわは
必要のないものと
なっているかも 知れない
この先の 旅路は
神へと向かう 道だ
幻想を 真理の後ろに退け
あるがままの 真理を
前面に 立たせた
これからの先の 旅路は
その 真理を頼りに
一歩退いて
神に 導いてもらおう

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