復活への道
- CHIEKO
- 2020年7月27日
- 読了時間: 3分
更新日:2021年7月2日
自分の信じていることが 目の前に現れ
それを さらに信じ込むために
あらゆる 物事の起こりに
それぞれが 自分なりの解釈をつけている
それが この世界だ
そうして この世界が営まれ
存在していないこの世界に 私たちは住み着いている
これが 真実だ
このことが見え始め 受け容れ始めて
ようやく
目覚めの入り口に立った そんな感じだ
目覚めとは
存在していないこの世界を 存在しているように見せる
思考から 目を覚ますことだ
そして それは
この世界を信じている限り 起こらない
この世界に 少しでも価値を置いている限り
起こらない
目覚めたと思っても それもまた夢の舞台であり
その目覚めの夢は いくつもの演目となって
上演されては 幕が下り
また 次の幕へと誘われていく
そしてこの世界を信じている 度合いによっては
それは あっという間に
深い夢の舞台へと 誘われていく
巨大な 煙幕となって・・・
ここ2、3日の間 心の中にあった葛藤が
今朝 解けていった
偶然のごとく 起こったそれは
必然のごとく
すべてがひとつ所へと 返っていった
今 私は
曇りのない世界にいる
喧騒を後にして 静けさの中にいる
静かであることは 無であることとは違う
静かであることは 有であり
静けきその源は 躍動に充ちている
私は有であり 無ではない
私を 受け容れられないのなら
それは 私ではない
あなたを 受け容れられないのなら
それも 私ではない
しかしそれは 肉体の話ではない
分離という この世界の中の話ではない
分離が前提の 世界では
私は 私を受け容れてはおらず
誰も あなたを受け容れることはできない
内なる心の中においては それがどちらも可能となる
内なる心の中においてのみ それがどちらも可能となる
あなたは私であり 私はあなたである
これは 慥かなことである
ただ
これを 分離の目で解釈するなら
あなたは自分を咎め 相手を咎めることになる
分離の目では そうすることしかできないのだ
心の眼で見る
その術を学び 体験し
知識となって 心の中に染み込んでいたとしても
未だ それを信じ切れていない肉体の目は
自分自身を 欺くことしかできない
そんな学びのための 体験だった
私は私でありながら 私ではないのだ
そうした認識となって ここ2、3日の葛藤は
心の中に 染み込んでいく
判断基準を持たない 私は
すべての物ごとに 判断などできなかったのだ
という悟りと共に 一切を明け渡していく
これが
キリストの 復活への導きであり
彼によって行われた 復活の旅路だった
「キリストは 自らを疑うことはできない
神を代弁する声は ただ
キリストの 完璧にして永遠なる無罪性を喜びながら
キリストを讃える ばかりである
聖霊に 審判された者のすることは
ただ 罪悪感を笑って退けることだけであり
もはや 罪の玩具で戯れたいとは思わない」
(奇跡講座 W.pI.151.8:2,3,4)
これが復活への道であり これ自体が復活なのだから
十字架刑など 何の意味もないことだったのだ
それを キリストは
言葉ではなく 肉体という玩具を使って
私たちに 示してくれたのだと感じた
内なる心の旅路は 深い
更に深く 謙遜の中に
そして 大いなるものの中に
道を 進めて行こう

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